近江手作り和蝋燭「大与」(滋賀県今津町)

2002年10月


近江手作り和蝋燭
大西明弘さん

40歳を過ぎる辺りから、伝統を守るおもしろさと大変さが、解りかけてきました。

ある時、同級生の今津町議会議員、森脇君が穀田恵二さんを連れて家を訪問してくれました。穀田さんは、日本の伝統産業を支援するため、関係者を訪ねているとのこと。親身になって、現状や、望んでいることなど聞いていただくことが出来ました。
私は自分の生活の安定だけでなく、長く続いてきた、いい歴史伝統は守る努力は必要と感じておりましたので大変、共鳴させていただくことが出来ました。私が送った和蝋燭と香を東京の宿舎で“癒し”として使ってくれたことも望外の喜びです。
私は現在50歳です。少し、和蝋燭について述べたいと思います。
うちは、3種類の原料で作りますが、その中でも櫨(はぜ)の蝋が最高級と自負しております。いい物は何かになると、櫨以外にはないと思います。
純正の櫨蝋は油煙がほとんどなく、また性質が悪性でないため、金箔も傷めないし仏壇の洗濯の時、汚れが取れやすいとのこと。とは京都の和蝋燭屋さんの話です。実験した事はありませんが、今までの経験からその様に思えます。
和蝋燭は全てが櫨ではありません。中には、中国性のうるし蝋を、櫨だと言って売る業者もいます。現在の所、櫨蝋でない商品も和蝋燭と言われています。だからこの頃、成分表示が大事だと思います。
櫨蝋の原料価格は、例の白いパラフィンの15~20倍、手掛けで作ったときの手間は時間で8倍、純正の和蝋燭に手間がかかるのは理解できるでしょう。

蝋燭職人の話

ohnishi_2 私が考える和蝋燭職人とは、手掛けが出来ることが条件と思います。一人前になるには、3年。しかし、何もかも解るようになるには、10年。3年では、条件がそろえば何とか出来るが、暑い時、寒い時、湿度の多い時、乾燥している時、また、蝋の温度、その時の体調など条件が変わった時、その時どう対処すればいいか解りません。そのことを総合的に体得できる様になるのは、やはり10年かかります。
最初は挫折のくり返しです。どうして手だけで、あんなにそろった物が出来るのでしょう。大量生産時代に、逆行したような、手作業。生産性とか、効率性とか、利益率とか、その様な世界からは無縁の忍耐の作業が続きます。しかし、それだけを続けていたのでは、希望がありません。その中にでも、よそと違う自分独自の特徴を持たせなければなりません。試行錯誤の上、まだ満足ではないにしろ、ようやくそれなりのものができたときは感激です。
そんなことから、今の時代では、この技術は第三者には伝えられないと思います。まず、3年もの間、人件費を払い続ける資金がありません。その初心者の失敗作を全て手直ししなければならず、手間は3倍以上かかります。それなら、最初から自分がつくった方が早いのです。継承するなら、血縁者しかいないと思います。自分の息子で、やる気があるなら、覚えられるまで頑張れます。
昔の職人は、世間が皆貧乏だったから、口減らしのため、食べさせてもらえるだけで良かったのです。現在は、それでは誰も協力してくれません。何もできなくても日当は払わなければなりません。そんなことは、零細企業の和蝋燭屋に出来るはずはありません。当社は女性パートに来てもらっていますが、手掛け作業はしてもらっていません。

櫨蝋の話

普賢岳の噴火、台風19号、原料の櫨は壊滅的な打撃を受けました。そして、人工櫨を開発しようと、合成蝋の専門業者と開発に着手しました。結局、似たものは出来ても、天然物は人工では出来ませんでした。この研究中に思いました。人間を分析することは出来ます。どの様な物質で出来ているのか分析は出来ます。
それでは、その物質をそろえたら人間を作り出すことは出来ますか。答えは出来ません。人間は、蚊一匹作り出すことは出来ません。原料は、良いに越したことはありませんが、その良いということを誰が定義づけるのでしょうか。
それは、作った人そのものです。本当に純正かどうかは、その人しか解らないからです。他人が生産したものは、純正かどうかは絶対というところで、絶対の自信は持てません。そのあたりが、一番心を痛めるところです。
ある時、九州で古いパンフレットに書かれていた文です。
「終戦後、戦地からの帰還兵が本土に降り立ち、夕日の中に櫨の木を見たとき涙が止まらなかった」  これを目にした時は九州ではそれほど、生活に密着していたのかと感動しました。現在は主に九州で採取されます。櫨蝋が九州の人々に与えた影響は大きいと思います。そして、櫨に日本の伝統文化を感じました。櫨を充分理解して、大事に和蝋燭を生産しなければと思います。
薩摩藩が櫨を藩の専売とし、重要な産品として藩外に流出することを厳しく取り締まったことは以前から知っていました。東北から帰ってきた薩摩の蝋搾りの職人が薩摩で始めましたが、なぜ、薩摩だけに櫨の木があったのでしょうか。他藩は、それから、蝋が採れることを知らなかったのでしょうか。藩主は、そのことを知られるのが怖いから、藩外に漏れることを恐れたのでしょうか。
その証拠に、多品種です。時代が進むに連れ、各地でその産業が興ったものと推測されます。また、話は品種改良に進みますが、品種は突然出来るもので、人が作為的に改良などできるものではないそうです。接ぎ木でしか、櫨蝋はできませんが、全て接ぎ木でなくテストとして種も蒔くそうです。突然変異で、選りすぐれた櫨実ができる可能性があるとのことです。

うるし蝋と櫨蝋の関係

東北地方に於ける製蝋業者は、当時は多数存在していたのではないでしょうか。と申しますのは薩摩の島津藩が櫨蝋を絞り始めたのは、東北地方に働きに行っていた人が同地方でうるしの実を絞っているのを見て、薩摩にも似たような実があると言って真似て薩摩で櫨を絞ったのが櫨絞りの始まりと言われています。
その後、生産性の良い櫨蝋にうるし蝋が押されて、暖かい地方の生産が主になったとの事で、最初は東北地方のうるしの実を絞ったのが始まりと言われています。
このごろ、櫨を、色々調べるうちに、暖かい地方は櫨、寒い地方はうるし蝋でなかったのかとの疑問を抱くようになりました。櫨の蝋燭はきれいに燃えるのに、寒い地方の和蝋燭は煙も多く蝋が流れるとの言葉も聞かれました。
今では、自分自身が良いと信じる商品を提供しようと考えています。その目的がハッキリしてきた頃から、蝋燭造りが楽しくなってきました。その気で取り組んでいても非の打どころのないものは出来ません。以前に勤めていた会社の社長様から「良い物を造りや、最後はそれやで」と教えられましたがやっとこの頃解ります。
当社が、櫨蝋といって販売している蝋燭は、100%櫨蝋です。和蝋燭の差別化と申しますか、純正櫨蝋のものか、または混合品か、混合品ならその割合、製法は等、色々な商品知識を伝え、販売店の方にも理解していただくことも今後は非常に重要だと思います。色々ありますが、自分自身を欺くことなく、できる限り良い物を作り続けて行きたいと思います。このような思いで、続けますので、穀田さん、今後も、宜しくお願いいたします。