友・井上吉郎氏逝く。心から哀悼の意を表す

2022年08月23日

 

21日、わが友、井上吉郎氏が逝った。
77歳で、亡くなった。心から哀悼の意を表す。お連れ合いの池添素さんと、ご家族のみなさんにお悔やみを申し上げる。

井上吉郎氏は、1993年、96年、2000年の京都市長選立候補し、「オール与党」を相手に奮闘し、「市民と日本共産党のタッグ」の歴史を切り拓いた先駆者である。

 

 

 

同氏とは、大学時代からの友人であった。彼は、京都大学農学部に在学し、68年からの学園紛争の折には、京都府学生自治会連合(京都府学連)の委員長、つまり京都の学生運動のリーダーとして活躍。私は府学連傘下立命館大学一部学友会の書記長として活動し、寝食を共にした。

アイデアマンであり、多彩な活動は、他に類を見ない。そのエピソードはあげたら切りがない。
京都生協専務の時代には「産直の草分け」として、さらに、ネルソンマンデラの集会開催とTシャツ、「国連・障害者の十年『最終年366日マラソンスピーチ』」の先頭に立ち、ほぼ毎日京都駅前で訴えていた。多くの人々が参加し現場からの訴えた。私も何度かスピーチした。

彼は、京都市長選挙の候補者として、私は、衆院選の候補者として一緒に歩んだ。

何年だったか、狂言師、後の人間国宝となる茂山千作さんの「四世襲名」お祝いの会が、茂山千之丞(先代2世)さん、民主諸団体を中心に開催された。
千作さんは「お祝いとは実に嬉しいが、私を出汁にして、市長候補と衆院候補を励ます集いが趣旨ではないか」と挨拶し、皆を笑わせた。
楽しい集いとなった思い出である。その時の千作さんからの引き出物が、老舗「かぎや政秋」の「ときわ木」であったこと今でも覚えている。吉郎と二人で「美味しかったな」と言い合った。

90~93年だったろうか、「知の巨人」加藤周一氏を囲む「白沙会」の世話人として、企画。後に「居酒屋の加藤周一(夕陽妄語はみだし)」として(白沙会編、かもがわ出版)、出版された。

96年市長選挙では、御池通り(今はTOTO)に事務所を構え、一日の選挙活動が終わると必ず事務所に戻って、スタッフと総括の会合を二階への階段を背に主催していた。4092票差の大接戦を演じ、「京都ショック」を創り出したことはつとに知られている。

 

その後の彼の活動は、市民運動の多岐にわたり、多くの方々もご承知の通り「WEBマガジン・福祉広場」編集長を務めた。
2006年、脳梗塞で倒れたが、驚異的な努力で、回復し、特定秘密保護法(2013年)強行を機に、今度は一人で嵐電白梅町駅で、毎週月曜日朝の「無言宣伝」を開始した。私も何度かともに訴えたが、その後は多くの同調者が生まれ、今日も続いている。

 

 

語ることが多すぎる。吉ちゃん、本当にお疲れさまでした。

 

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2021年8月の「無言宣伝」は雨の中でした。写真中央、赤いレインコートを着ているのが井上氏。

 

 

2018年4月の「無言宣伝」。写真の左端が井上氏。

 

 

2015年6月、京都市役所前の集会で。