藤原ひろ子・元衆院議員逝去。心から哀悼の意を表します。
2022年01月6日
訃報です。
昨年、大晦日に日本共産党の元衆院議員・藤原ひろ子さんがお亡くなりになりました。(享年95歳)
お悔やみを申し上げ、心より哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
藤原さんは、1926年生まれで、京都府立第2高等所女学校(府二)を卒業し、京都市立小学校教員を経て、京都市教職員組合婦人部長。
62年に日本共産党に入党。71年京都市議会議員1期。76年の衆院議選挙で旧京都1区で初当選、4期務めました。
79年総選挙で、藤原さんと梅田勝さんが、旧京都1区で2度目の共産党複数議席獲得を成し遂げました。
国会では、逓信委員や物価対策特別委員を務め、狂乱物価から暮らしを守るために奮闘しました。
写真下は、2011年1月の玉本なるみ市会議員の活動日誌より
「国領五一郎を顕彰する京都の会」の結成の際には、一緒に顧問に選出されました。
京都の顔と言われた谷口善太郎(衆院議員)さん、河田賢治(参院議員)さん、そのあとを受けた梅田勝さん、藤原ひろ子さん、そして私とつながっています。
私が初めて国政選挙挑戦したときのパンフレットでは、応援メッセージを寄せていただきました。
藤原さんとは、数えきれないほど思い出があります。90年の冬の総選挙、狭い北区柏野学区の路地を回るのに、ドライバーが自信がないと言うので、道をよく知っている京都市会議員であった私が運転して、藤原さんの訴えが狭い路地裏に響きました。
教諭であった藤原さんは書もたしなみ、頼まれて表札も書いていました。それくらい上手でしたから、総選挙に向けて、「敬老の日」のチラシを、直筆で作成しました。
私が和服の際、袴を着用しているのは、藤原さんのアドバイスです。
藤原さんの演説は、平和と戦争の訴えが多くの有権者の心を捉えました。
戦争の末期、教員として子どもたちを学童疎開に引率したときの経験は、戦争はアカンの思いを奮い立たせるものでした。
学童が夜中にいなくなっていることに気づき、探し回って、ようやく線路伝いに京都へ帰ろうとする児童を見つけ、「京都に帰りたい、お母さんに会いたい」と泣かれ、一緒に涙したことを切々を訴えました。