岡信子(長崎平和祈念式典「平和の誓い」訴え)さんのご逝去に哀悼の意を表します

2021年11月6日

 

今年2021年8月9日の長崎平和祈念式典で「平和の誓い」を読み上げた、被爆者・岡信子さんのご逝去に心から哀悼の意を表します。(4日午前、肺がんのため長崎市内の病院で死去。93歳)

岡さんの「平和の誓い」を、私自身の胸に深く刻みたいと思います。

 

 

岡さんの、「長崎平和祈念式典」における「平和の誓い」全文を紹介します。

ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身にけがを負いました。

被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善(しんこうぜん)救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見よう見まねで救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりうじだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にうじがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、がれきで道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。大けがをした父を時津(とぎつ)国民学校でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた!私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱き付きました。

父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を飲ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟を負ぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を想い、胸が詰まりました。

今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

今、私は大学から依頼を受け「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。

私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年(令和3年)8月9日

被爆者代表 岡信子