清水寺での「アテルイ・モレの碑」法要に参列

2020年11月15日

14日、毎年恒例となった(11月の第2土曜日)清水寺での「アテルイ・モレの碑」法要に参列しました。

 

 

この碑は、1994年、私も建立を進める一人として清水寺に建碑を願い出て、清水寺本堂下の南苑に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」として建立されました。揮毫は森清範貫主、顕彰碑は学芸員横山正幸氏の筆によるものです。

写真は、読経する森清範貫主

 

 

同じく、参列者にあいさつする森貫主。

 

 

コロナ禍のもと、参加者をしぼっての取り組み、厳かに法要が執り行われ、参加されたみなさんで記念に撮影

 

 

清水寺の紅葉も、ちょうど見ごろを迎えつつあり、とてもさわやかな日和に映えていました。

 

 

清水寺境内にある、蜷川虎三元京都府知事の歌碑の前で。

 

 

こちらは、清水寺参道にある東日本大震災時の流木で作られた大日如来像。私も、建立にかかわった一人として、ひと堀りノミを入れました。

 

 

法要後に行われたささやかな昼食会で、私は、万壽寺の佐々木道一老師、小沢昌記・奥州市長とともに簡単にあいさつ
アテルイ・モレの碑の建立の経緯に触れて、「東北の勇、アテルイ・モレと清水寺の創始者・坂上田村麻呂との融和と共存の歴史がこの碑にはあります。分断と対立でなく、共存こそが、いま世界と日本で求められているのではないでしょうか」とお話ししました。

 

 

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アテルイ・モレの「碑文」は、次のように刻まれています。

八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国(ひたかみのくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。

胆沢(いさわ:岩手県水沢市地方)の首領、太墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。

八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。

田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし、公家達の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑された。

平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為・母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄もって冥さるべし。

一九九四年十一月吉祥日