こくたが駆く

西高瀬川の親水公園化について

SANY0265  毎年、8月最後の日曜日に実施される「堀子川魚つかみ大会」今年も26日に実施される。
 今日は、その準備のため地元・西新道商店会の皆さんが呼びかけて、地元有志や大学生のボランティアなどが集まり、堀子川(西高瀬川) の掃除が行われた。

 西高瀬川はもともと江戸時代末期に、丹波地方からの木材などを京都市内中心部に直接引き込むための運河として開削が始まり、 名勝嵐山の渡月橋より少し東の嵯峨野周辺から東流し、太秦を経て天神川と合流した後、三条通り、千本通り沿いを流れ、 四条通南側で直角に曲がって西流、下京・南区の市街地を直線的にジグザグと貫流して下鳥羽で鴨川へ流れ込んでいる。
 (ちなみに保津川を開削して丹波地方からの物資を京都桂川まで運ぶ運河事業を開始したのは、江戸時代の豪商・角倉了以であるが、西高瀬川の取水口の地名も角倉町だ、角倉了以の邸宅があったことに由来するのだが、没後200年以上先に開始される西高瀬川開削の事業を展望していたのだろうか?何らかの縁を感じる、京都の歴史の奥深さといったところか)

 この西高瀬川が、嵐電嵐山線沿いに西向きに流れる部分が地元では「堀子川」と呼ばれて親しまれている。
 この堀子川の親水公園化を求めて、西新道商店街の皆さんをはじめ、地元の皆さんが20数年来運動されてこられたもの、 もちろん地元の原田完・府会議員も、議員になる前から、西新道錦会商店街振興組合の事務局長時代からずっとかかわってこられた運動だ。
 この魚つかみ大会も、その運動の一環として「堀子川をキレイにしよう・慣れ親しもう」と行われてきたものだ。

 さてこの親水公園化を求める運動、いよいよ事業化に向けて動き始めた。京都府の『京の川再生事業』 の一貫として堀川と西高瀬川に清流の復活が指定され、昨年12月より、地元でのワーキングも始まっている。
 西高瀬川には清流でしか育たない「蛍」の餌となる川蜷(カワニナ)も住んでおり、蛍の飛ぶ西高瀬川をと要望してきた地元の皆さんの夢が、 実現にむけ一歩近づく事になったわけだ。

 私は東京で会議のため本日のお掃除には参加できず、秘書の小林さんに行ってもらいました。(長靴姿で奮闘中) 魚つかみ大会の当日にお会いしましょう。

 

| コメント (2) | トラックバック (0) | Update: 2007/08/23

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コメント

お元気でご活躍のことと存じます。
 西高瀬河のことを調べるつもりで、グーグルの検索をしていて気付いたのです。
 「西高瀬河の親水公園化について」を読ませて頂きますと、あたかも西高瀬川を、角倉了以が創ったように読める文章があるのですが、これは本当でしょうか。

 ご指摘の通り、角倉了以(没年1614年8月17日)が関わったのは、保津川・大堰川の開削までで、江戸幕府の末期に開削が始まった西高瀬川に角倉了以本人が直接かかわったわけではありません。
 ただ保津川開削により、丹波地方と京都の間の水運を確保する礎を担ったのが角倉了以であり江戸時代を通じて京都における運河事業を一手に担ったのが豪商・角倉家であることから、保津川から桂川を経て京都市内へとつなぐ水運事業を「開始した」のは角倉了以と言って差し支えないかとも思います。

 しかし、たしかに誤解を招く書き方ですので、後で少し修正をしたいと思います。ご指摘ありがとうございました。

 ちなみに西高瀬川の桂川からの取水口あたる地域の地名は「嵯峨天竜寺角倉町」です、角倉家が邸宅を構えたことに由来する地名です。

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