「平頂山事件」の被害者遺族、訴訟弁護団と懇談。

2023年09月30日

遅れましたが報告です。
25日、平頂山事件の(下段に若干の解説)被害者・生存者の方素栄さん(逝去)の長男・曲達さんと、生存者の日本政府に対する要求を支援する市民と弁護団が訪れ、懇談しました。

 

 

平頂山事件生存者の日本政府に対する要求。
1、日本政府は、平頂山事件の事実と責任を認め、生存者及びその遺族に対して公式に謝罪を行うこと。
2、謝罪の証として、ア、日本政府の費用で、謝罪の碑を建てること。イ、日本政府の費用で、平頂山事件被害者の供養のための陵苑を設置・整備すること。
3、平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないために、事実を究明し、教訓を後世に伝えること。

懇談には、曲さんの他、「撫順から未来を語る実行委員会」委員長の井上久士さん(日本中国友好協会会長)、平頂山事件訴訟弁護団から泉澤章・大江京子の両弁護士らが同席しました。

 

 

 

曲さんは、三つの要求は被害者としての最低限の要求で、3,000人へのせめてもの慰めに実現したいと述べ、平頂山事件の真相を伝えていくことが平和のための努力につながる、「戦争はダメ世界は平和を」と訴えました。

 

 

私は、平頂山事件を広く知らせること、司法の場でも虐殺の事実は認めたことを広く共有しようと述べ、戦争はダメの発言に、京都での「日中不再戦の碑」の活動を紹介しました。

 

写真下は、曲さんに憲法9条の額を説明する私。

 

 

写真下は、曲さんと固く握手する私。

 

 

弁護団のみなさんは「平頂山事件」の冊子もあらためて紹介し、事実を広め、緊張を高めるのではなく日中友好でこそ平和をと運動していきたいと語りました。

 

 

 

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【平頂山事件とは。平頂山事件訴訟弁護団の取り組み】(しんぶん赤旗と弁護団の訴えでまとめました。)

平頂山事件とは、1932年9月16日、中国東北部の撫順市近郊にある平頂山集落において、旧日本軍(独立守備隊第二大隊第二中隊)が、3,000名余りの無抵抗の住民を虐殺した事件です。
当時、平頂山には、3000人以上の村民が住み、その多くは撫順炭鉱の労働者でした日本軍は記念写真を撮るなどとだまし、住民をがけ下の一カ所にかり集めました。村民がカメラと思ったのは、実は機関銃でした。機関銃を覆っていた布が取り払われると、住民は逃げるまもなく機銃掃射にさらされました。一斉掃射の後、生存者がいれば銃剣で刺して回り、とどめを刺しました。遺体にガソリンをまいて焼き払い、最後は、がけを爆破して遺体を埋め、事件を隠滅しました。
そのころ、中国東北部では、柳条湖事件(31年9月18日)に端を発した関東軍の占領に対し、抗日運動が日に日に激しくなっていました。そんな中、日本が占領していた撫順炭鉱が抗日ゲリラに襲撃される事件が起きました。日本軍は住民がゲリラと通じていると決めつけ、見せしめのために、平頂山の住民の皆殺しを図ったものでした。

現場は発掘され、いまは「平頂山殉難同胞遺骨館」として展示されています。この事件は、その後の中国における日本軍の数々の残虐行為に先行する事件として有名です。この事件で剣に突き刺されながらも奇跡的に命をとり止めた莫徳勝さんら3人が日本政府に損害賠償を求め、96年8月裁判を起こしました。判決はいずれも平頂山事件の加害と被害の事実を認定しました。

しかし、戦前の国の違法な公権力行使は責任を問うことができないという「国家無答責」の原則を唯一の根拠として原告らの請求を棄却しました。