野中広務・元衆院議員の逝去にあたり、哀悼の意を表します。

2018年01月27日

 

26日、夕刻、元衆院議員で自民党幹事長や官房長官などを歴任した野中広務氏(92歳)が逝去されました。

心から哀悼の誠を捧げます。私とは政党が自民党と日本共産党として対峙してきた、宿敵の先輩です。同時に立場は違っても、長いお付き合いいただきました。

 

野中広務

 

野中氏は、京都府園部町議(現南丹市)、同町長、京都府議、副知事と地方自治の道を歩み、1983年の衆院補選で初当選。村山富市内閣では自治相・国家公安委員長として初入閣した後、小渕恵三内閣では官房長官、森喜朗内閣では党幹事長として政権を支えました。小泉純一郎元首相の構造改革路線とは相いれず、2003年に政界を引退。

戦争体験者として、「戦争がどれだけ大きな犠牲と傷跡を残してきたか、もう一度、歴史を学んでほしい」、「安倍晋三首相が提案している憲法改正について僕は反対です。私みたいに戦争に行って戦争で死なないでかえってきた人間は、再び戦争になるような道は歩むべきではないと。これが私の信念です。死ななかったから今日の私があるんですから。死んでいった連中を今思い起こしても、本当に戦争というものを二度と起こしてはならない。それが私の今日までの姿です」と語っていました。たびたび日本共産党の発行する「しんぶん赤旗」にも登場いただきました。まさに保守の良識を代表する尊敬すべき政治家でした。

1999年、村山富市元首相を団長、野中氏を幹事長とする超党派の代表団の一員として北朝鮮を訪問しました。他党の代表のおもねる発言に業を煮やした野中氏は、「こくた君、北朝鮮にキチンとモノを言いなさい」と発言を促されたことはいまでも忘れることできません。

当時は、まだ拉致問題は日朝間では疑惑の段階でしたが、私は「日本国民の多くは、北朝鮮による拉致の疑いがあると思っている。そのことを率直に伝え、ミサイル問題、日朝国交回復などの諸問題で話し合いの糸口をと、やってきた」と発言しました。

会談後の夕食を終えたのち、野中氏とジックリ話しました。氏は誕生の地・園部町におけるマンガン鉱において、朝鮮の人々の苦役と日本の苛烈な対応を目の当たりにしてきた。このことが、贖罪と語っておられたことも、思い出です。