3・11 東日本大震災から10年
2021年03月11日
2011年3月11日、14時46分に発生した大地震。繰り返す強い余震。想像を超える津波が街を襲い、濁流となり家屋などを押し流し、多くの方々が犠牲になりました。東日本大震災あれから10年。いまなお行方不明者も。復興は半ば。避難生活も続いています。
あらためて犠牲になられた方々に哀悼の意を表します。同時に被災されたみなさん、いまなお避難生活をされているみなさんにお見舞いを申し上げ、生活と生業の再建のため、引き続き、全力を尽くしてまいります。
2012年の追悼記念式典前には、斉藤信・県会議員、市会議員のみなさんと参列。準備でお忙しい中ではありましたが、戸羽太・市長と懇談しました。
今年の岩手県での追悼式は陸前高田市との合同開催で、陸前高田市での開催は震災翌年に続き、2回目。下の写真は式典が開催される「高田松原津波復興祈念公園」。公園内には、道の駅と東日本大震災津波伝承館があります。
何故、私が陸前高田にこだわるのか。それは私が小学校 2年生から 4年生まで過ごしたからです。私が演説会に故郷を訪れたとき、当時、陸前高田市の市会議員であった故及川一郎さんは、担任の菅野先生と同級生を寄せていただき思わぬ同級会を開いてくれました。
3・11のあの日、大きな地震があったの報道を受けて、私は直ちに及川さんに電話をしました。及川さんは「おら、大丈夫だべ」と応えたのです。これが最後の電話だったとは。及川さんは、住民を助けるために避難誘導を行い、犠牲になりました。このことを「しんぶん赤旗」紙上(3月9日付)で、政子夫人は、心の思いを語っています。
日本共産党の誇るべき議員です。未だに、私の携帯には彼の電話番号が残っています。残された政子夫人とともに、一郎さんのご冥福を祈ります。
「奇跡の一本松」。過去の度重なる津波から高田のまちを守ってきた、約7万本と言われる高田松原は流され、その中で唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」です。津波に耐えて奇跡的に残った一本松でしたが、海水により深刻なダメージを受け、2012年5月に枯死。今はモニュメントが高田のまちを見守っています。
下の写真は、被災前の高田松原。350年前の江戸時代初期、この地には波や風を防ぐ施設は無く、潮風、砂塵や高波による被害が絶えませんでした。高田松原の歴史は、この頃に菅野杢之助が、その後、松坂新右衛門が、まちに生活する人々をこれらの被害から守るために、マツを植栽したことに始まります。
この景観を取り戻そう、復活へと2017年5月に、高田松原復旧工事の施工地内において、高田松原再生記念植樹会が開催され、松原再生に向けた植樹に着手し、クロマツの苗1,250本を植栽。
NPO法人高田松原を守る会のみなさんが、大船渡土木センターと大船渡農林振興センターと陸前高田市農林課の許可を得て入場し、手入れをしています。
下の写真は、海水浴。
私は、海水浴場での体育の授業など思い出は尽きません。2年生の時、海パンで海に入っていたのは、先生と私だけだったと言われました。演説会で「高田松原の思い出」を語ったとき、参加していた同級生がそのことを野次で飛ばしました。
演説会終了後、海パンとふんどしが話題になり、大笑いしました。