「民衆とともに歩んだ山本宣治」、韓国版出版にあたって推薦文を寄稿 

2019年05月28日

 

本日、5月28日は、山宣こと山本宣治の誕生日です。1889年5月28日に生を受けた山本宣治は、今年生誕130年を迎えます。1929年3月5日に暗殺されて90年の節目の年でもあります。これを期して、韓国で下記の書籍(「民衆ととともに歩んだ 山本 宣治」宇治山宣会著 かもがわ出版)が韓国語に訳され、発刊されることになりました。その発刊にあたり推薦文の寄稿要請がありました。

 

DSC_0789 山宣の本

 

私が「山宣パンフ」、韓国版出版にあたって寄稿した推薦文は以下の通りです。

 

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山宣ひとり孤壘を守る

だが私は淋しくない

背後には大衆が支持してゐるから

 

DSC_0798 山宣 額①

 

山宣こと山本宣治、彼の最後の演説の一節を記したこの拓本は、日本共産党国会議員団の控室に、今日も飾られています。

戦前の暗黒の時代に、主権在民、国民の自由と民主主義を求めて闘った不屈の先達の遺訓をひきつぐ私たちの決意を示しています。

1、「民衆とともに歩んだ 山本宣治(やません)」(以後、“山宣”冊子と略)出版を祝う

山宣暗殺90周年にあたって、韓国でこの山宣冊子を出版する快挙に心から拍手を送ります。

宇治山宣会が発行したこの山宣冊子は、日本が侵略戦争と植民地支配に向かう暗黒の時代、平和と民主主義を求めて闘い抜いた山本宣治の生涯と、支えた民衆の姿を活写した優れた書です。

また、「日本国民を無権利状態においてきた天皇制の専制支配を倒し、主権在民、国民の自由と人権をかちとるためにたたか」い、「侵略戦争に反対し、世界とアジアの平和のためにたたかった」「日本帝国主義の植民地であった朝鮮、台湾の解放と、アジアの植民地・反植民地諸民族の完全独立を支持してたたかった」(日本共産党綱領)日本共産党と戦前の日本社会を知っていただく上でも格好の書です。

さらに今日の政治状況と山宣の遺志を受け継ぐ闘いと展望をコンパクトに語っている点も見逃せない時宜に適した冊子であり、心から推薦します。

2、戦前、非合法の下での活動を余儀なくされた日本共産党は、暗殺された山宣に「日本共産党員」の称を贈った。

山宣が命をかけて反対した治安維持法とは、当時の内閣の戦争政策に対する国民の批判を圧殺し、労働者、農民らの運動の高まりを抑圧するため、違反者の最高刑を死刑にするというもので、言論弾圧、結社の自由を否定し、闘かう前衛(日本共産党)の活動を圧殺しようとする悪法でした。

山宣は、国会で、上程される治安維持法に反対演説を行う強い意志を表明するも、反対討論の機会を奪われ、3月5日に右翼の凶刃に倒れたのです。

この事態を受け、「非公然の活動を続けていた日本共産党の中央委員会は、3月12日の『無産者新聞』に、故山本宣治に日本共産党の党員資格を贈ると発表」(冊子の40頁)しました。山宣の生涯は、日本共産党の闘いと深く結びついていたのです。

3、私は、元旦に山宣の墓を詣で、闘う決意を固めることを慣わしとしている

私は、1990年に、日本共産党の衆議院京都一区選挙区の候補者となって以来、年の初め・元旦に山宣のお墓・碑を訪れます。日本共産党の京都府・市会議員団、宇治市会議員団の皆さんと一緒に、新年にあたり、山宣の不屈の生涯に思いを馳せ、平和と民主主義の前進めざして奮闘する決意を固めるのです。  山宣のお墓・碑に続いて、京都に眠る革新運動の先達の墓・碑を詣でることも慣習としています。山宣に、総選挙立候補を日本共産党の決定として促した、“谷善”こと谷口善太郎衆議院議員、地方自治の灯台と称され民主府政を28年に渡って築いた蜷川虎三元知事、マルクス経済学者で京都帝国大学教授であった河上肇氏(選挙で山宣の推薦状を書き、応援演説も行っています)、清水焼労働者の谷善とともに京都の日本共産党を創立した西陣労働者の国領五一郎氏、京都で平和と民主主義の前進のために闘った無名の戦士を祀った京都解放戦士の碑などを訪れ、先達に奮闘の誓いを述べているのです。

 

 

山宣の碑

 

4、山宣の生涯を描いた映画「武器なき斗い」を、ぜひ視てほしい。

山宣の闘いの生涯は、日本共産党員である山本薩夫監督の手で「武器なき斗い」として映画化されました。

ヒョーマンでかつユーモラスな山宣の人物像と庶民の苦しい生活が描かれています。映画では「私が山本宣治です。私も四人の子持ちです。子どもがあるからには女房がある。女房がいるから子どもができる。つまり夜になるとみんな同じことをしているんです。ここにおられる巡査部長さんも夜寝るときはまさかサーベルを吊ったままではないでしょう」と語っています。

同じく「わが国の子ども命名に就いての習慣を見るに、特に子沢山な無産階級の間において、親たちの望まぬ児がうまれた時、留吉、お末など最早これ以上うむまいといふ親の態度を告白する。が、さてさうは決心しても、また続いて出来た時は、捨吉なぞとかなり薄情な名をつける人もある」と当時の「貧乏人の子沢山、生活難」、民衆のための産児制限運動の場面を表したのです。

戦後日本共産党の衆議院議員として活躍した谷口善太郎さんは、映画では、「谷さん」として登場しています。

もう一つの白眉は、山宣の国会質疑の場面です。1929年2月8日、「第五十六回帝国議会衆議院予算委員第二分科(内務省及拓殖省所管)会議録を、忠実に再現しています。

山本宣治質問(議事録1ページ)

 

当時の官憲による不法検束、勾留、拷問についての事実による告発と弾圧に対する糾弾は、圧巻と言うしかありません。「冬の寒空に眞裸で四ッ這にさせられて・・・竹刀で殴って・・・床を舐めさせた」「被告は竹刀で繰返し殴られて悶絶した、不図眼ガ覚めたら枕許に茶碗に線香が立ててあった攻め殺したものと思うた人間が、流石に死んだ者の怨みが怖いか冥福を弔ふ為に、其死體と見られた者の枕邊に線香を立てて置いた」(議事録原文は、当時の仮名遣いで書かれている)という告発の場面。

 

山本宣治質問(33ページ)

野蛮な弾圧の苛烈さと緊迫したヤリトリがヒシヒシと伝わってきます。

肝心の問題は答弁拒否、さらに居直り、逆に脅迫まがいの答弁は、今日の安倍政権と変わらないなと苦笑せざるを得ません。

 

DSC_0800 山宣DVD①

 

5、演説は出来なかったが、治安維持法改悪反対の発言原稿は、何を語りかけるか

原稿は、治安維持法の本質と悪法推進する資本家・地主などの支配階級の狙いを、「白色恐怖政治を敢行するため」「労働者党撲滅のため治安維持法改悪」であると見事に喝破しています。

そして、日本共産党の性格を端的に説明して、いわく「日本無産階級が持つ唯一の政党である。労働者階級の革命的な前衛党である。・・・労働者の本質的な利益を闘いとり、労働者を暴虐なる資本家政府の攻勢から救済するための政党である」と強調し。さらに、「共産党は世界各国において、公認の党として存在している」とし、政党の存在には社会的根拠があると断じています。

また、山宣は、先に触れた、国会質問の最後に「九十七パーセントを占める所の無産階級の政治的自由獲得するために、犠牲と血と涙と、生命までつくす」と訴えました。

今日、私たちが主張している「1%の富裕層のための政治ではなく、99%の人々のための政治」の提起と相通じるのではないでしょうか。

 

6、未来へ引き継ぐべきもの

山宣の息女・山本治子さんは、歌集「清明の季」で第一回紫式部市民賞受賞(その短歌の一部は、42頁に掲載)しました。

治子さんは、「花やしき」のあずまやで住んでいました。受賞をお祝いし、炬燵(こたつ)でみかんを食べながら懇談したことは今でも忘れることができません。治子さんは、歌集をひろげながら、「言論をしばる法 また謀りをり めぐる歴史は 哭くべくくやし」を題材に、戦争の道を再び歩んではならない、憲法の示す平和の道をと静かに語りました。治子さんは、一九九五年三月五日、奇しくも山宣の命日になくなりました。

安倍政権のもと、安保関連法制、集団的自衛権行使容認の閣議決定、秘密保護法、共謀罪などを強行し、憲法改悪を声高に叫び、戦争する国づくりがすすめられています。

しかし、山宣の不屈の闘いを通じてつくられた日本国憲法の、平和主義・基本的人権・国民主権の原則が戦後日本社会には息づいています。変えるべきは政治です。山宣、治子さんの遺志を継ぎ、日本共産党は、市民と野党の共闘で安倍政権を打倒し、希望ある新しい政治を実験するために新たなチャレンジを行っています。韓国と日本の民衆の連帯がこの山宣冊子を通じて深まることを期待して筆を置きます。

 

山宣の拓本原本